ソーシャルメディアの功罪:情報過多の悲劇

インターネットの登場が情報社会に劇的な変化を起こしたことはいうまでもありませんが、最近のソーシャルメディアの普及がネット時代の情報流通と拡散に拍車をかけていることもまた事実。世界中のありとあらゆる情報がリアルタイムで入手でき、それにまつわる様々な関連情報や他人の意見も同時に知ることができるようになった今、そのかつてない情報量との付き合い方に戸惑っている人も多いのではないのでしょうか。今回は米国ソーシャルメディア評論の第一人者ブライアン・ソリスがそんなソーシャルメディアと情報の現在について語った興味深い記事を。 — SEO Japan

私が実施した、ソーシャルメディアおよびディスラプティブテクノロジーがビジネス、そして、カルチャーに与えるインパクトの調査がきっかけとなり、私のことを知るようになった人もいれば、情報を行動および企業内の変化に変える取り組みを共に行い、知り合いになった人達もいる。また、ソーシャルメディアやディスプラティブテクノロジーが、個人そして人間に影響を与える仕組みを調べていくうちに、私の中の意欲的なソーシャルサイエンティストが呼び起こされ、声をかけられた人達もいるはずだ。

私は、毎日のように、ソーシャルメディアバブルが弾けるかどうかを問われる。ツイッター、フェイスブック、グーグル+、フォースクエア、ピンタレスト – 多過ぎると感じているのだろう。しばしば、情報過多の存在を認めることが、もしくは、情報過多と診断されることの多い症状を理解してもらう、もしくはその症状に立ち向かうことこそが、心理学者の役割だと私は推測する。

これは新しい現象ではない。情報に圧倒されてしまう感覚は、あらゆるメディア革命に共通する。新たにイノベーションが行われ、そして、ディスラプティブテクノロジーが大勢の人々によって採用されると、私達が利用可能な情報の量は急激に増加する。メディアが行き渡り、そして、持ち運ぶことが可能になり、あらゆるタイプの情報は、要求に応じて得ることが出来るようになる。何よりも、手の中に収まり、好きなように生成し、そして、消化することが出来るようになる。良くも悪くも、私達は常にオンの状態である。これは個人として、そして、情報社会として成長する上での問題であり、そして、解決策でもある。

ソーシャルメディアは新たな民主主義を私達に与えてくれた。この民主主義によって、世界中の人々とつながりを持ち、知識、娯楽、そして、関係のない情報を自由に作り、分かち合い、そして、貪る力が生まれたのだ。素晴らしくもあり、そして、恐ろしくもある。私達は注意力の限界を超えており、もう後戻りすることは出来ない。ソーシャルメディアの塔は、私達の世代、そして、その前の世代が遥かにシンプルな生活を送っていた過去の現実の土台へと崩れ落ちることはないだろう。情報過多を解決する上で、自己管理、もしくは、つながりおよび交流に焦点を絞った何らかの意欲的な管理が、鍵を握っている。

ソーシャルなつながりにおける人的損失は実際に起きている。しかし、情報過多の症状は、無秩序な状態に秩序をもたらす私達の力がないのか、もしくはその意志が欠けていることを示しているに過ぎない。従って、私達はこの情報の氾濫を阻止するメディアの堤防とも言えるだろう。

難問は、ソーシャルストリームおよび関係を管理する権利を持っている点を理解することではなく、当該の情報が何なのか、そして、何の可能性があるのかを意識することである。要するに、まずは、つながりを持つ仕組み、情報を消化する仕組み、そして、作る仕組みは問題であり、解決策でもあることを理解しなければならないのだ。情報過多を管理することが出来るのは自分一人であり、受け入れることから全てが始まる。

今いる場所、そして、行きたい場所の間のどこに落ちてしまっているのだろうか?この二つの場所は、ビジョンおよびアクションによってのみ分けられている。しかし、過剰に情報が供給され、そして、適切に目を通さなければいけないと言う責任感に圧倒されていくなかで、疲労してしまうのだ。

何にでも共通することだが、やはり情報過多にも影の側面が存在する。常にオンの社会で生活する上で密かに忍び寄る危険がある。それは、常につながっている必要性である。私達は関連性、もしくは無関係になる恐怖によってある程度動いていると言える。常に会話の一部を担っていると、覚えていてもらえる。また、虚栄心によって動いている部分もある。自分について誰かが話している場合、何と言っているのか、どのように会話に反応しているのか、そして、他の人達が誰について話しているのか、もしくは、誰とつながりを持っているのかを知る必要がある。

「見逃している」感覚は常に消えることはない。この点は、個人的には、レベルには差があるにせよ、全てのデジタルデバイスのユーザーに当てはまると思う。このようなネットワークは、感情の交換に他ならない。笑い、愛し、戦い、泣き – そして、何よりも生きている – そして、中には現実の世界とオンラインの世界で異なる生き方をしている人達がいる。違いは、インターネットにつながらなければいけない程度、頻度、時間、そして、感情の深さである。この答えによって、デジタルなライフスタイルを私達自身が決定するか、あるいはデジタルライフスタイルが私達を決めることになる。

2010年、ペンシルバニア州のハリスバーグ科学 & 技術大学は、学生達のメディアの消化量を抑える試みとして、ソーシャルメディアを一週間禁止した。何がこの禁止のきっかけになったのだろうか?ハリスバーグ大学のエリック・ダー学長によると、ストレスおよび依存するポテンシャルが、禁止実験で大きな役割を担っていたようだ。

ダー学長は、ファストカンパニーのインタビューの中で、懸念について次のように説明している – 「一部の生徒は、限りなく臨床的に依存症に近い状態です。この点を差し引いても、この一連のテクノロジーは生活を乗っ取るポテンシャルを持っています。」

禁止を解いた後、大学が実施した調査の結果からは、気掛かりな現実が見えてくる。様々なソーシャルメディアサイトでステータスアップデートをチェックしなければならないと感じるレベルもその一つである。身に覚えがあるだろうか?学生の約15%が毎日11-20時間をフェイスブック等のソーシャルメディアサイトで過ごしていることを認めていた。フィリップ K. ディック著のSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を思わず私は思い出した。

私達のデジタル生活は、管理するのがますます難しくなっていく。スマートフォン、タブレット、車内のテクノロジー、飛行機、電車、そして、自動車に加え、公の場所のWiFiが存在するため、ネットに接続する誘惑が至る所に溢れているのだ。しかも、そこで終わらない。ソーシャルネットワークは、オンラインの関係を拡大するためのテクノジーおよびマーケティングに資金を投じている。リコメンデーションエンジンを介して、ソーシャルグラフ – つまり知り合いの垣根を超え、インタレストグラフ(共通の関心を共有する人達)の構築を誘っているのだ。

情報過多は実際に起きている現象ではあるが、個人的には意図が存在すると考えている。自分に有利に働くこともあれば、不利に働くこともあり、また、流れの方向を決める選択肢は私達が持っている。情報過多は、必要以上の摂取の症状、そして、関心および重要性に基づいてオンラインの経験を絞り込む力の欠如を意味する

2012年の年始、私はツイッター、フェイスブック、そして、グーグル+で情報過多に関する見解を募った。単純に「ソーシャルメディアが原因で情報過多を患っていますか?」と問いかけた。すると様々なことが明らかになった。- 詳細な結果を見たい人は、ここをクリックしてもらいたい(コメントにも目を通す価値はある)。

41ヶ国にまたがる800名を超える人々がこの調査に参加していた。様々な答えが返ってきたが、説得力のあるストーリーを得られた。YesまたはNoだけを見ると、情報過多を認めたのは僅か14%であり、21%はオンラインの経験を管理していると明言していた。その一方で、57%はソーシャルメディアにたまに圧倒されると感じることがあるものの、管理するのは自分次第であると認めている。興味深いことに、Yes、ときどき、そして、“中毒です”を合わせると、情報過多の広がり、またはその局面をさらに把握することが出来るようになる。

 

良き友人でもある、デビッド・ワインバーガー氏は新作の書籍 – 「大き過ぎて分からない」の中で、情報過多が私達にとって新たな黄金期である理由を説明している。ワインバーガー氏は、事実が、デジタルネットワーク内で共有された経験や会話の積み重ねである“ネットワーク化された事実”にとって代わっていると指摘している。この作品の中で、同氏は、テクノロジーは尽きることのない私達の好奇心を容易に満たすことが可能になり、その結果、私達が学ぶ仕組み、つながりを持つ仕組み、交流する仕組み、そして、協力する仕組みは改善されていると主張している。

情報および人物へのアクセスは夢中にさせる作用がある。また、自分が誰なのかを知ってもらう行為、もしくはどのように自分を見てもらいたいかを考える行為は共に誘惑する作用を持つ。しかし、目的意識、管理、そして、規律がない状態では、自分の有利になるようにプラットフォームを管理するよりも、価値を見出すネットワークに没頭してしまうだけである。目的および特色によって、参加するかどうかを決める必要がある。私達は自分達とつながりを持つ人達とつながりを作る義務を負っているわけではない。自分が誰なのか、何に価値を見出すのか、そして、同様に参加するコミュニティに投資する価値のバランスを見極める責任があるのだ。

クレイ・シャーキー氏はかつて、「情報過多なんてものは存在しない – 私達のフィルターが作用していないだけだ」と指摘していた。

私個人は“情報過多は、重要ではない情報に焦点を絞りたくない欲望の兆候”だと思っている。

また、情報過多は、本当に重要なこと、もしくは個人として、プロとして、そして、人間として自分自身に本当に関連していることに集中することが出来ない能力の現れと言い換えることも出来るだろう。これが厄介なのだ。

私達はソーシャルネットワークのどのように使えばいいのか、そして、見返りに何を得られるのかを学びつつある。何が可能なのかを知りつつある。しかし、動きながら学んでいる感は否めない。一線を超えた後に線が引かれていることに気づき、あるいは超えた人達を目撃することもある。教師、親、模範になる人物や仲間は、ソーシャルメディアおよびソーシャルカルチャーがオンラインおよびオフラインの行動に影響を与える中、ようやくこの進化を理解し始めている。そのため、私達は皆学んでいる最中なのだ。ただし、その一方で、教える側にも回らなければならない。


この記事は、Brian Solisに掲載された「The Fallacy of Information Overload」を翻訳した内容です。

個人が入手できる情報量がかつてない規模で増えているのは疑いない事実ですが、それをどう取り込み意味ある情報として効率的に活用していけるかは今後の課題なのでしょうね。ソリスのアンケートで現時点でも半分の人が情報をうまくマネッジしていると答えているのには少し驚きましたが、個人的には、情報入手量を絞ることで、情報を管理している感があり、単純に大量の情報を精査する時間が気力もないことから本来は価値がありながらも日々見逃してしまっている情報も数多くあるのだろうな、とは思っています。

もちろんソーシャルフィルター等、活用してはいますが、どうしても人気投票制になりがちなのと、自分の興味のある範囲での情報しか集まらない傾向もあり、最近話題のフィルターバブルに知らぬ間に侵されている不安がなくもありません。その意味では今後新たな種類のニュースレコメンデーションやフィルタリング技術の登場に期待してもいますし、個人的にこの辺で少し活動もしているので、いつか製品リリースしたいとも思っているのですが。。。ネットとソーシャルに溢れる多種多様かつ膨大な量の情報との付き合い方、個人レベルでも社会レベルでも今後の大きなテーマの一つの気がしています。 — SEO Japan [G+]

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